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snowravine's diary

くだらないことばかりを喋りたい

ドライブ・マイ・カー/村上春樹 (ある初老俳優のパラノイア)

書評

「ドライブ・マイ・カー」は文藝春秋2013年12月号に掲載された村上春樹の短編である。

女優の妻を結婚20年にして病死で喪った五十歳過ぎの俳優・家福が、
諸事情で愛車・サーブ900コンパチの運転手が必要になり、ドライバー・みさきをアサインする。
女性としての美しさや愛嬌は皆無なみさきだったが、その確かな運転技術と車の奥底まで掌握するようなギア・チェンジの精緻さに家福は助手席で久方のリラックスする感覚を覚える。そして口数少ないが痛みを負った人間の暖かさを持つみさきに、少しずつ心情を吐露していく。

二枚目俳優・高槻と妻との浮気に気づいていた家福だが家庭では気づいていない”演技”を続けていた最中、妻は子宮の病に倒れ入院し、やがて亡くなる。自分には妻を満たせず、高槻が満たせたものとは何か、家福は静かに苦悩したまま妻を喪う。浮気相手・高槻と友人を”演じた”交友しはじめ、その答えを探す。

この物語のテーゼは男性の独占欲からくる偏執愛に集約されると思われる。
美しく何らの欠点もなく20年連れ添う妻と、12年10万キロを共にし「個人的な愛着を持つ」サーブ900は、ここでは家福が自分のものとして意識するという意味で同列の存在である。計り知れない部分もありながら、長年を共にしまるで自らの一部であるかのように愛するものたち。

タイトルの「ドライブ・マイ・カー」は勿論ビートルズの楽曲”drive my car”からきており、その歌詞では
”baby you can drive my car, and maybe I’ll love you.”と歌われる。
反意も含めて言えば、「僕のものを見事扱ってみなよ、それが出来たら認めてあげる」という意識を歌った歌であるとも言える。

その意味でいうと、自分のものであるサーブ900と、そして妻。自分の愛するこれらのものを見事扱ったなら、操者として認めてあげるというパラノイアの物語である。

サーブ900の運転手であるみさきは、さりげなく”美しくない”、”愛想がない”と下げた状態で出会いながら初めての運転からサーブを見事に操作するみさきの技術と車への造詣に、家福は”操者”として自分の愛するサーブ900を扱う器量を持つ者として認め、自らの心を開いてゆく。

対して、みさきへの語られる、高槻という男に関しては、”大した男ではない”、”おまえにそんなことは分からない”、”分かりやすい男”、”酒に溺れる男”、つまり深みの無い男、中身のない男としての辛辣な評価が下される。
そんな下らない男のどこに妻は魅力を感じ、浮気をして抱かれたのか? 家福は高槻への社会的処刑を決意するほどの屈辱を感じる。お前みたいな下らない男が、俺のものに触れるな、手を出すな、と。

何度となく友人として酒の席をともにし、酒にのまれる高槻が失点を晒す機会を伺う家福だがとある会話から、高槻の中にイノセントな誠実さと、彼の精一杯の深みから紡がれた、一定の力を持つ言葉を聞く。
下らないと思っていた男の奥底から、家福の心底に到達する程の言葉が一言、溢れでたのだ。

その酒席以降、家福は高槻に一切会うのをやめる。高槻から誘いがあっても無視する。
つまり、高槻は認められた、のだ。もう高槻に会い、俺のものである妻の操者としての資格を問う必要がなくなったからだ。

とはいえ傷ついた男のプライドは、みさきの放つ”女性を演じた”次の言葉で回復する。
「奥さんはその人に、心なんて惹かれていなかったんじゃないですか」
「だから寝たんです」
「女の人にはそういうところがあるんです」


みさきは、家福の操者だったのである。


baby you can drive my car, and maybe I’ll love you.

 

文藝春秋2013年12月号 | 最新号 - 文藝春秋WEB